1907年設立のダイハツ工業はエンジンメーカとして出発、
オート3輪車で自動車メーカに転身し、1957年に発売さ
れたミゼットが国内は勿論の事、東南アジアで大ブームを
巻き起こした。大学を卒業し、内装設計でお世話になった
当時(1976年)にリッターカーとして不夜城の中で「シャレ
ード」を開発しており翌年から販売され大ヒットを飛ばして
いた。
各部署の若きエンジニアと良く遊びに行った事が蘇ってく
る、デザイナーや構造設計者、その中でもピカ一の腕を持
つ人々との同じ釜のめしを食った。
中鉄工と言う社員が数名しかいない零細企業の小倅が
社会と言う大海に出、自動車を作る企業の中で賢人達
に揉まれ仕事する。二年程であったが後々経営者として
最前線に立つ身として技術管理手法や組織人としての
振舞等の貴重な経験させていただいた。
余談だが内装設計でお世話になった先輩のお子さんが
生まれ「眞一郎」と命名された。曲面の断面を三角法で
表現できない出来損ないだったが大きな製図台に愚直
にしがみつき寝食を共にさせていただいた中での出来事
であった。
一流と思い設計に勤しんでいたがさらにその上のエピソ
ードが待っていた。TOYOTAスターレットをOEM供給
していたのだ。TOYOTA車は、量産ラインで品質や信
頼性を保証する試作を4回、4次号試まで繰り返す
のだが当時のダイハツは二次号試まで、明らかに品質
に対する取り組みが異なっていた。ボディー板厚も0.2
~0.3mm程度薄くするために高張力鋼を使っていた。
組織面でも主査制度を採り入れ開発の全てに関わり、
提案書類・設計図には主査のサインを持って発行さ
れる様になった。昔はTOYOTAと同格だったんやけど
なぁと幾度も年老いた技術者達のため息も耳にした。
自動車の電動化・自動運転化に欠かせないノズル式
はんだ付ロボットの最大市場はTOYOTAグループ、
2008年から最後の設備開発でチャレンジし、一意専
心出来たのはルーツがここにあったからだ。
ものづくりの世界で求める一流、一流の会社、スタッフ
と相まみれて一流の製品を創る喜び、一流を追いかけ
て来た歴史、旧きを訪ね原点を振り返ってみる事で一
流に対する一定の答えは導き出される。
その答えは、一流を目指す、一流に憧れる、一流と繋
がることにより必ず成長するを学び優良企業として成
長する事が出来た。
<経営は生死を分ける戦いである>
24歳で稼業に就く、火の車は相も変わらず、そんな中
TOYOTAグループとの接点が舞い込んでくる。
日本電装さんとの出会いは一人の一流設計者の死か
ら始まった・・・・・・。