破綻した主(あるじ)無き南設計が残した日本電装さん向けの
点火プラグの中心電極の組立機。銅やニッケルペレットの整列、
供給組立後、通電チェック付きスポット溶接、高さ検査後に4
ケ/4秒に層別排出。中鉄工に入社4から5年目に未経験の
訳アリ案件を引き受けた。
「何故?」
若気の至りで引き受けたのか、今でもあのイケイケのエネルギー
の源はどこにあったのかと回顧すると背筋が寒くなる。
図面や仕掛品を買い取り管財人指定口座に現金を振り込む。
図面や仕掛り品と職人さん達を東大阪にあった中鉄工の工場
に引き取りリスケした日程に向けスタートを切った。
鬼籍に自ら飛び込んだ横山社長の想いを背にこの職人さん達
が最前線で仕上げてくれた。電気制御は清算で大忙しの合間
を縫って番頭の林さんが担当。
無事に刈谷本社にある元織機工場跡に納品。足を踏み入れ
て初めてこんなでっかな会社との取引が始まったのかと実感させ
られた。当時(40年ほど前)日本電装は平均年齢が29歳の
育ち盛り、魅力的な会社として憧れをもってミッションは終了。
安全装置を持たたないプレス機械屋として前途を絶たれ、遠い
親戚であった自動機等を手掛けてくれた番頭さんも突如、お客
様の担当者と独立してしまった。残されたのは職人の父親と旋
盤工、大学の後輩二人だけ。拾い仕事の何でも屋、飛び込ん
で来たノリタケマシンのダイハツ向け設備下請けをしていた。
「たわけ、あかすか!」と納期と品質は今一、若さと返事と安いだ
けが取り柄の鉄工所、溶接棒で設備を叩かれて鍛えられていた
日々での出来事。
PARATを卒業した2024年末、デンソーのマイスターやGM、ト
ヨタ社員数人と情報交換した。その際にKEIUKEさんが言ってく
れた「まだ、中さんところの機械が最前線で稼働しているよ。現場
の関係者も良い機械と言てったよ」涙腺が緩むのを必死に我慢。
あの「ABペレット中心電極組立機」が40年経った今も生きてい
る。
何故、誰もが二の足を踏む事故案件を引き受けたのか?
横山社長が育った月夜に浮かぶ富士山で目に見えない笑顔素
敵な横山さんに委託され受けたんだと思えば腑に落ちる。
数度、パラットニュースで取り上げたが衝撃的な出来事、いつもキ
ーボード叩きながら目を腫らしている。
横山さんがどこかにいつも潜んでいる。
あれから10年後に、自身も経営の蹉跌を迎え、あれから42年、
年商30億円に手が届くまでの業容拡大した。
この辺りの思いを「経営は生死を分ける戦いである3」で振り返る。